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5/20/2011

ボー読み英語教師、多し

つぎの5つの文の下線部は、まったく同一の単語が同一の順序で使われているが、フォーカスが全く違うので、イントネーションやストレスが全然違うはずなのだが、これを言い分けられる現職英語教師が非常に少ない、ということを改めて発見した。春の関大の大学院でもこれを感じ、今回、埼大の大学院でもまったく同じことを感じた。

A. English teachers who can speak with proper pronuciation are not at all rare, but there are very few English teachers who can get their students to speak accurately.

B. English teachers who can teach their students to write correcly are not at all rare, but there are very few English teachers who can get their students to speak accurately.

C. English teachers who can teach their students to speak fluently are not at all rare, but there are very few English teachers who can get their students to speak accurately.

D.  French teachers who can teach their students to speak correctly are not at all rare, but there are very few English teachers who can get their students to speak accurately.

E.  Parents who can teach their children to speak appropriately are not at all rare, but there are very few English teachers who can get their students to speak accurately.


A, B, C, D, E の下線部を同じようにフラットというか、無標(unmarked)の文ストレスでダラダラ言うから、彼らの言いたいことは非常にわかりにくい。こちらが必死に文脈から推測しなくてはならない。

他人に教えられるのは少ない、と言いたいのか、話させるのは珍しい、と言いたいのか、正しさに焦点をあわせるのが少数派だ、と言いたいのか、英語という教科の特性だと言いたいのか、親とは違うといいたいのか、がまったくわからない。

自分の言いたい気持ちを単語に「乗せて」英語を話す、という体験というかトレーニングがいかに欠けているかという証拠だろう。

情けないなあ。単に自分の言いたい部分だけ、ゆっくりはっきり、周囲よりピッチを上げて落とすだけでも全然伝わり方が違うのだが..

What We Teachers Are For

I heard today that there are many Japanese EFL teachers teaching at the university level who comment, upon encountering quite (or ludicrously) low level students' writing, that such writing "ruins" their (i.e. teachers') sense of English.

Shame on them!

Such a comment only proves that they do not at all understand what they are paid for.  In this day and age, advanced students or highly motivated students do not really need a teacher because they can make use of a range of materials on the web, from news articles to grammer clinic to pronuciation training.  The cohort who really needs a teacher is no one but those students who write at a hilariously low level, who have no clues for improving themselves without any external, or teacher, intervention. 

Our primary job is to assist and lead weak students, not the cream of the society.  That's what teachers are for.

5/15/2011

踊る「男子」大学生の育て方

「踊る大学生の育てかた」は、女子クラスの話だったのだが、埼玉大の共学クラス(大学1年生の「教職入門」)を観察にきた教員志望の4年生に、

「男の子でも踊るんですね。ちょっとビックリしました。」

というコメントをもらったので、これについての考えを書いておく。

件の授業とは、Do Re Mi の歌の歌詞を使って、メロディなしのリズミックチャンツをつくり、ステップを踏みながら身体をゆらせて発音練習する、というものだった。

学生たち(男子17名 女子5名)は、今のところ全員教員志望者なので何でも基本的に一生懸命やる、というのを差し引いたとして、これが教員志望とは関係ない通常の英語のクラスだった(以前担当してた関西大のクラスはほぼすべてそういう状況だった)として、男子でも女子でも、私の授業ではみんな「踊る」。

上の質問というかコメントは「通常はあまり身体を動かすとか歌うとかいうのに対して抵抗を示しそうな学生でも、教師の指示に従うのに驚いた」という意味だと思うのだが、どんな学生でもこちらの指示にしたがって身体を動かす、というのには3つの力が働いていると思われる。

(1)これは有効な練習だ、と納得させていること

英語の基本はリズムで、リズムを体感するには口で言うだけでなく腕なり、足なりを動かして、文ストレスが来るそのぴったりのタイミングで足を踏みしめたり、手を叩いたりするのが、英語的に話せるようになるためには確かに有効そうだ、と思わせていること。これには普段から教員の英語運用力に説得力を感じさせていることがもちろん大前提である。

(2)モデルとしての教師が、まった恥ずかしげなく、楽しそうに、演ずること

これはまず絶対条件である。歌でもそうだが、教員が歌わずに生徒が歌うことは200%ない。モデルとして、楽しそうに演ずることが大切である。また実際に私はとても楽しんでいる。英語のリズムに合わせてぴったりと身体を動かすことは非常に気持よいことなのである。快感なのだ。それを学生にも味合わせてやりたい、と思っている。

(3)そうせざるを得ない仕組み、システムをつくっておくこと

その上で、好むと好まざるとに拘らず、こちらの要求したようにパフォームすると有利になり、できないと不利になるような、成績上の仕組み、システムをつくってやることが大切だ。具体的にはそれが個人のグルグルであったり、グループでのパフォーマンスの採点であったりするが、単に全体一斉授業でやるだけでなく、その時に指示されたレベルまで自分を高めないと実際に成績がよくならない、という仕組みがなければ、クラスをひとり残らず動かすには弱いと思われる。

以上の、頭で納得、教員の恥ずかしげのないデモ、やらざるを得ないシステム、の3条件が揃えば、どんなクラスでも動くはずである。実際私の経験では、小学生も、中学生も、高校生も、大学生も、大学院生も、現職教員も、踊った。

最初のうちは、生徒が「乗ってくれない」場合でも、まったく気にせず、教師は楽しそうに演ずるのがよい。心のなかでは歌いたい、踊りたい、と思っている生徒はかならずいるし、そういう生徒は目を見ればわかる。そういう生徒が自然に増えていって、全員が踊るようになるのである。

音痴でもリズム音痴でも、声を出したり、リズムに合わせて身体を揺すったりするのは、人間であれば誰でも気持ちがよいことなのである。それを周りを気にせずできるような雰囲気をつくってあげるのが大切だと思う。

5/14/2011

多音節語は大ポン2つで

ごく最近気づいたこと:

337拍子などをやる場合、第2アクセントがあるような多音節語には、2つの「大ポン」を配分してもよい。というか、配分するほうが、とくに初心の学習者にはやりやすい。例えば、

association は、oooOo

だが、2音節目に第2アクセントがある。

chauvinistic は、ooOo

だが、1音節目に第2アクセントがある。

これらを含む、

The National Chauvinistic Husbands Association is a club of husbands who want to change.

で、1語には最高でも1つの大ポンという原則でやると、

the NAtional chauvinIStic HUSbands associAtion is a CLUB of HUSbands who WANT to CHANGE.

となり、大文字のところでステップを踏むのは、結構しんどい。chauvinistic と association で無理がでる。

しかし、第2音節でもステップしていいことにすると、

the NAtional CHAUvinIStic HUSbands asSOciAtion is a CLUB of HUSbands who WANT to CHANGE.

となって、格段にやりやすい。

むしろこのほうが、第2アクセントの音節をきちんと言わせることなって望ましいとも言える。

しかしこうすると、この文には、大ポンが10になって、4の倍数でなく、そのままでは繰り返しが上手くいかないので、例の「のりしろ作戦」で、

the NAtional CHAUvinIStic HUSbands asSOciAtion is a CLUB
      O              O          O       O                 O     O             O             O

a CLUB of HUSbands who WANT to CHANGE
       O          O                        O               O  

who WANT to CHANGE themSELVES!
            O               O                  O                         O

とすれば、ぴったりはまる。

最初の、a CLUB に7拍目を踏み、そのあとに休みの8拍目を踏むことに注意。

このように、2つのポンを配したほうがよいだろう単語には、もちろんおなじみの

communication なども含まれる。

この単語は、「コミュニケーション」という誤ったイメージで発音する人が多いので、

oOoOo

という表記にすれば、

「クミューヌケイシュン」

というイメージで、きちんとmuの部分を伸ばしてくれる人が多くなるだろう。

そうなるといっそのこと、「ポンポンパタン表記」のルールを改正して、

第2アクセントは無視して小ポンにする、

でなく、

第2アクセントは第1アクセントと同じく大ポンにする、

にしようか、と検討中。

そうすると第1と第2が同じになって「アクセント問題」に対応できなくなる、というような「点取り虫議論」は今の私にはどちらかといえばどうでもよい。

5/12/2011

踊る大学生の育て方

非常勤先での非英語専攻大学1年生対象とした授業が、GWを挟んで、今日、ちょうど4回目が終了しました。この4回は一種のオリエンテーションとして、毎回、最初の30分は大学指定の個人作業をさせ、あとの60分間で、Reading in Action の使い方に慣れるようにしました。

<この一ヶ月で、丁寧に少しずつ、分からせようとしたこと>

- 子音や母音のスペリングを意識して、きちんと発音する。
- 英語にはリズムがあるので、文の中で強い強勢を受ける音節の位置を、足踏みやステップ、身体をゆらせて体感すること。
- リズムを大事にしながら、かつ、個々の音も大事にすること。
- きちんと英語的なリズムで英語的な音で音読すれば、単なる文法的な例文でも、快感が味わえること。
- 最終的には、文字を見ながら読めるだけではダメで、フレーズや短い文を一瞬頭にいれて、それを相手の目を見て言うようにしないと、スピーキングの練習にならないこと。
- 文が書けるだけではダメで、書いた文は言えなければないこと。
- 文が言えるだけではダメで、言った文は書けなければならないこと。

<この1ヶ月で達成できたこと>

- 発音を大事にしようという雰囲気を作れた。
- 指定された予習や復習は必ずする、という雰囲気を作れた。
- 「このクラスの英語は、音楽や体育みたいでしんどいが楽しい」、という感覚を持たせることができた。
- 先生の目を見ながら発音するのは言うまでもなく、クラス内のアクティビティとしてひとりずつ歌ったり身体をゆらせてステップ踏んだりするのも、大学生でもぜんぜんフツーのことだ、と「洗脳」(笑)することに成功した。みんな楽しく踊ってくれるようになりました。

<改めて痛感したこと>

グルグルをして一人ひとりと50センチの距離で向きあうと、一斉授業で全体にたいして話しているだけでは絶対に見られない顔・表情・やる気を見ることができる

5/11/2011

ゆっくり話すのとぶつ切りで話すのは違う

今日、学生に質問されて発見した、よくある(らしい)誤解

「ゆっくり話すこと」 = 「一語一語区切って、単語と単語の間にポーズをおいて、しかもすべての単語を強形で発音して、不自然なリズムで、話すこと」

「ナチュラルなスピードで話すこと」 = 「イイカゲンな発音でとにかく速く話すこと」

どちらもまったくの勘違いである。

英語教員に必要なのは、

自然なリズム、文アクセントで、超ゆっくり、はっきり、しかし単語と単語の間にはまったくポーズをおかずリンクし、センスグループの間にのみポーズを置きながら

話せること(とくに中学生などの初学者を教えるとき)と、

自然なリズム、文アクセントで、速く、はっきり、単語と単語の間はすべてリンクし、センスグループの間にのみポーズを置いて、

話せること(とくに大学生などを教えるとき)である。

ゆっくり話すことは決して不自然に話すことではないし、速く話すことは決してイイカゲンに話すことではない。

5/07/2011

very は ベリー でも ヴェリー でもない

very は Very good! などにも使われる、英語学習のかなり初期のほうで出てくる単語である。この語を学生が発音するのを聞いて気になるのが、

ベリー

あるいは多少まともでも

ヴェリー

というイメージでとらえている者がほとんだ、ということだ。

音声学の本を見ればすぐわかるように、英語では、ストレスの来る音節は強いだけでなく、高く、また長~く発音されるのである。その音節の長さの伸び縮みが、英語的なリズムを作り出すのである。

ver-y

は、

ver-y

なのであって、

ベリーでなくむしろ

ヴェ~ リ

というイメージが正しい。

すべての音節を同じ長さで言う「日本語的原稿用紙」のイメージを捨て、文のなかでストレスを受ける音節をはっきりした音価で、強く、高く、長~く伸ばし、それ以外の音節を、イイカゲンで曖昧な音で、弱く、低く、短く言って、「スキップしているような」話し方をするのが英語らしく聞こえるコツなのである。

そして自分でもそういう発音を普段からしているか否かが、そういう英語を聞いたときにどの程度リスニングに成功するか、にも影響するのは当然である。

これは、very だけのミミッチイ話ではなくて、すべての単語、すべてのフレーズ、そしてすべての文に通ずる。

教え子の君たち..というか、オマエラ!  一を聞いたら十を分かってもらわないと。すべての単語について同じことを言ってやるのは無理だぞ。 この前の音声学の授業の教科書に書いてあったろ?そういう知識がまったく実際に生かされていないよ。どういうこっちゃ!?

5/05/2011

教育実習の指導教諭に望むこと

教育実習生が来たなら、

1 単語の導入はむやみにカードを flash させないで、一字一字と音の関係をきちんと意識させながら導入するように、

2 少なくとも自分の口から出てくる英語の発音は高いレベルで適正であるように、

3 少なくとも非文法的な文、不自然な文を自分で言わないように、

4 単にCD音声を流して、こまかい音声上の注意点ついて何もコメントせずに、ただ「聞かせっぱなし」にすることがないように、

(個々の発音はどこを特に聞くべきか、どこの語を強く発音しているか、そしてそれは何故か、語と語はどのようにリンクしているか、そしてそれはどういうメカニズムか、話者の音声的な特徴はどうか、イギリス音か、アメリカ音か、ニュートラルか、日本人として思い込んでいる音とどこがどう違うか)

5 本文の内容確認をTFの答え合わせで済ませず、なぜTか、なぜFか確認するように、

6 できれば本文内容をより分かりやすい発音で、よりやさしい表現の英語で説明させるように、

7 生徒に音読させたらかならずアドバイスをして、より上手くなるように、

8 教室全体の生徒を見て、生徒の「空気」を察知して、できる範囲で活動を微調整するように、

9 オーラルイントロダクションをするなら「魅力的な小道具」に凝るあまり、導入した文型のトレーニングが少ないといった、本末転倒にならないように、

10 生徒になにをやらせても Very Good ですまさず、even better になるためには、次はどうしたらいいかを必ずアドバイスできるように、

(いいねえ。でもここをこうすると、もっといいよ)

11 教師の英語は、モデルなのであって、生徒が真似しやすいように、ゆっくり、はっきり、丁寧に、正確に、口の動きを極端に大きく、表情を大げさに、話すように。けっして、イイカゲンな発音でペラペラ早口で話さないように、

(英語教師は舞台でセリフを言っているのと同じだ。日常生活と同じように自然であってはいけないのだ。不自然でなければいけないのだ。プライベートライフで友だちと話しているのではない。教壇という舞台でセリフを言っているのだ。)

12 生徒に答えさせるときは、基本的に下を向いたままなく、read and look up 方式で答えさせるように、

13 聞いたことは言うように、言ったことは書くように、書いたことは言うように、

14 正確に言えたら、徐々により速く言えるようになるように、

15 英語は単語ごとでなくフレーズで発音し、リズムが大事だということを生徒に体験させられるように、

ご指導をお願いいたします。

教育実習生に望むこと

また教育実習の季節である。

4週間後には研究授業を見てコメントしなければならないわけなので、研究授業で「見たいこと」「みたくないこと」を書いておく。

教育実習で一番大切なことはなにか? 生徒とラポールを作ること? 生徒の距離を適性に保つこと? 指導教員の先生の方針を理解してそこから逸脱しないこと? いい意味で楽しむこと? 心身の健康を維持すること?

これは「一番大切なこと」という質問がナンセンスなのだ。病気にならずに健康で4週間を乗り切ること、と、生徒との距離を適正に保つこと、というのはまったく次元のことなる話なので、「どちらがより大切か」ということを考えるのに適さない。

例えば、人間にとって一番大切なものは何か? というのも一種ナンセンスな質問であるのと同じ。ある次元では、「呼吸する空気があること」だし、また別の次元では「飲む水があること」だし、別の次元では「食べ物があること」だし、別の次元では「心のつながりがある友人や家族がいること」だし、別の次元では「収入を得る仕事があること」だし、別の次元では「人を愛せること」だし、別の次元では、「ヒトサマの役にたてること」だし、「思いやりがあること」でもあるし、さらに別の次元では、「子孫を残して遺伝子をとぎらせないこと」でもある。これらのなかで、「一番大切なものは何か」という質問は、ナンセンスである。空気と思いやりと遺伝子は比べられない。

ということで、英語の教育実習に関して一番大事なものは何か、という質問はナンセンスなので、しない。ナンセンスでないのは、たくさん大事なものがあるなかで、一般に教育実習生が、満足なレベルでできていないものは何か、という質問である。

オーラルイントロダクションのために魅力的なプ実物を用意したり、パワーポイントでスライドを作ったりする事に関して、満足でない実習生はいまどきほとんどいない。

インタビューゲームの設定がとてもマズイ、というような実習生もほとんどいない。

非常に多くいるのは、

(1)英語の発音がまずい実習生

(2)非文法的な文を言う実習生

(3)非文法的ではないが、状況として不自然な文(aというべきところtheを使う、またその逆など)を言う実習生

(4)生徒のひどい発音を直すどころか指摘すらしない実習生

(5)インタビューゲームで、生徒同士がワークシートを見せ合っていたり、ひどい英語でやりとりをしているのを放置している実習生

(6)授業展開のテンポが悪い実習生

である。

ということで、少なくとも私が関わった実習生には、せめて、(1)と(2)にだけはなって欲しくないと思う。つまり、自分で言う英語は、音声的にも文法的にもキチンとしたものであって欲しい、ということである。

それを超えて、生徒にうまく技量を伝えられるならそれは素晴らしいことだが、そこまでは期待すまい。そんなに簡単にうまくいく物ではないだろうから。しかし、せめて自分の口からでる英語はマトモなものであってほしい。

なんと控えめな願望だ、と思うだろうか。そんなことはない。この(1)と(2)だけでも達成できたなら、控えめに見積もっても今の現職教員の半分よりは上なのだ。