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10/12/2014

「国際語としての英語」論の錯誤あるいは無責任?(加筆あり)

アメリカ語として、イギリス語としての英語ではなく、国際語としての英語を教えよう、という趣旨の講演を聞いたが、腑に落ちなかった。

「インプットはアメリカ語もしくはイギリス語でよい。しかしアウトプットは日本英語でよいのだ。ジャパニーズ・イングリッシュだ。だから寛容であって欲しい」

趣旨はわかるが、具体的にはどのように? アメリカ語でもイギリス語でも、

I like tennis.

と言うので、それをインプットとして教えると、アウトプットして、

I am like tennis.

という文が出てくるが、「国際英語」論からは、これはいいのか、わるいのか。

いくら、

I can play tennis.

というインプットをしても、必ず、一定の確率で、

I can tennis.

が出てくるが、これはいいのか、わるいのか。

教師というものは、教科書(にのっている規範)を使って教える。教科書に出てくるような英語を身につけさせたいとおもって一所懸命教える。だから、I like tennis.と教えるなら、I like tennis. というアウトプットを引き出すのが目標なのである。それを、I am like tennis.でも、「コミュニケーションに支障はない」(かどうかは、大いに疑問だが、それはさておき)から許容せよ、と言われては仕事にならないのである。

そんなものを許容するくらいなら、教師という仕事が成立しないといってもよい。誤解を避けるために言うと、この I am like tennis. の例は、講演者が行ったものではなく、講演者の言うことを聞きながら私が考えたものである。講演者はどう思うか質問しようとしたのだが時間がなかった。もし質問したら、「いや、それはダメですよ」とおそらく答えたのだろうか。しかし、ではどういう英語なら許容してどういう英語は許容しない、というラインを具体的に示せたかというと、おそらく示せなかったのではないかと思われる。

それは、会場で唯一質問する機会を得た質問者の「では『日本英語』の音声面、文法面の定義を教えてください」という質問にたいして、「日本で10数年学んだ結果の平均ですよ」を繰り返すのみで、具体的で、specific な「日本英語」像の提示はなかったからである。

「我々日本人は、臨界期を過ぎて英語を学習すれば、どこまでいっても日本英語なんですよ。私だってみなさんだって90%以上のひとは、みんな永遠に日本英語なんですよ。それをアメリカ英語が身につけられる、なんて思うのは幻であって、日本英語でいいわけですよ。だれも日本人がカナダ人に間違えられるような英語を話すことを期待していませんから。」

それはそうなのだが、やはり「日本英語」の指すものが問題である。講演者自身は非常にきれいなアメリカ英語発音でこれを言うのである。もちろん母語話者が聞けば非母語話者の英語だとわかるのかもしれないが、もちろんすべての英語音素を区別した、外国語として学習した非母語話者として到達できるおそらく最高レベルに近い英語である。そういうレベルの「日本英語」を、我々が苦労している生徒や学生のデフォルト状態の「日本英語」と同列に論じるから、不毛な議論になる。

スパイになるのではあるまいし、だれも、「工作員として潜入しても日本人とばれないほどのnative-likeな英語を話せるようになるために教える」などという極端なレベルの話はしていない。英語であるからには英語として楽に intelligible である程度の、最低限度の、最大公約数たる、English as a lingua franca をなんとか身につけよう、身につけさえよう、という話をしているのである。

最低限度のポイントをクリアしている、しかしネイティブではないとわかるであろう、立派な functional and respectable non-native Englishとしての、ジャパニーズイングリッシュ(講演者が使っていたようなレベルの英語)と、母音挿入しまくり、L/R区別なし、B/Vも一緒、Be動詞と一般動詞混同、主語がまともにない、ようなレベルの dysfunctional, low-level garbage としてのジャパニーズイングリッシュ(われわれの生徒が、まともに指導されない場合に、口からでるレベルの英語)、という」2つのレベルの「ジャパニーズイングリッシュ」をいっしょくたにして議論するのでは、素人レベルの井戸端会議ではないのか。

こういうアバウトな主張は、生徒にも現場の先生にも、service でなく、むしろ disservice となると私には思われる。