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3/31/2018

世の中いろんな人がいるからオモシロイのでは?

学生支援部会長としてある学内冊子に寄稿を求められたので、標記のタイトルで原稿を書いてみた:

年々、程度の差はいろいろであるが、発達障害というアンブレラタームでくくられる特性を持った学生が増えてきた。障害者差別解消法が施行されてから2年が経とうとしているが、学生を受け入れる大学の側、とくに教員の意識はどうだろうか。そうはっきりと口に出しては言わないものの、そういう学生をできれば受け入れたくない、自分の学科には入ってきてほしくない、いわんや自分のゼミになど絶対に入れたくない、と考えている教員は少なくないように感じる。残念なことだ。 
そういう気持ちは次のような一見もっともな言動となって表明される。曰く、学科の体制としてケアが十分にできない。曰く、自分たちはただの教員であって専門知識がないから無理だ。曰く、大学は自分たち全員に発達障害についての研修を受けさせもせずにそんなことを押し付けるのか。曰く、「何か」あった時に、大学は責任を取ってくれるのか、等々。 
もちろんこういう言動が、「ケアができるような体制を整えたいから、専門知識を与えて欲しい、研修を受けさせてほしい」という前向きな意味で表明されていることもなくはないのだろうが、多くの場合は、「自分たちはそんな学生に関われない、関わりたくない」という逃げの気持ちが透けて見える、ように私には感じられる。 
そういう言動に接する時、思う。この人は、もし自分の子どもがそういう特性を持って生まれついてきたらどうするのだろうか、と。こんな子どもには関われない、関わりたくない、と言って、その子を自分の人生から排除しようとするのだろうか。 
そういう親と呼ぶに値しないバカ親もなかにはいるかもしれないが、ふつうの親ならそういう方向には考えないし、考えることはできない。自分の子どもなのだから。そういう特性も自分の子どもの属性の一部であるし、そういう子どもがいるという属性も、自分自身の一部である。自分自身を切り離すことはできない。 
批判を承知で書くと、教員の中でも大学教員は、「いい」学生、手のかからない学生しか相手にできない人の割合が、小中高の教員よりも多い。そうでない学生は自分の守備範囲ではないと思っているのだろう。それは教師としての守備範囲が狭すぎるのである。そしてそれはそのまま人間としての幅が狭すぎることになるのではないだろうか。え?自分たちは研究者であって教師ではない?でも「教」授って教える人でしょ。 
そもそも、世の中にはいろいろな人がいるのである。頭のいい人もいれば、そうでない人もいるのである。足の速い人もいれば、そうでない人もいるのである。ルックスの良い人もいれば、そうでもない人もいるのである。太った人もいれば、痩せた人もいるのである。物覚えのいい人もいれば、そうでない人もいるのである。しょうがいをかなりもっているひとも、多少もっているひとも、あまりもっていないひとも、いろいろいるのである。身体的にしょうがいのあるひともいれば、知的にしょうがいのあるひともいれば、情緒的にしょうがいのあるひともいるのである。よく見れば教員集団のなかにもいろいろいるじゃないですか。 
頭が最高に良くて、視力は2.0で、背が高くて、イケメンで、美女で、プロポーション抜群で、運動能力抜群で、思いやりがあって、品行方正な学生だけしか入学させない学校は、教師から見て手はかからないが、つまらないのではないだろうか。というよりそんな学校に人間の教師はいらんだろう。AIでもあれば十分だ。ま、そんな学校、わたしもあなたも含めて、世の中の99.9%の人は、入学試験に通らない。

「いくら何でも、いくら何でもご容赦ください!」〜誰に仕えるか〜

太田氏が声を震わせて「いくら何でも、いくら何でもご容赦ください」と反論したシーンは今国会での最も印象に残る場面の一つだった。太田氏に同情する部分は多々あるが、その時の「私は公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事です」という答弁は、いただけない。ここは「お仕えした方に」ではなくて「国民に」と言って欲しかったなあ。公務員は「公僕」なのだから。
東京新聞 2018.3.31 金井辰樹「面従腹背か面従腹従か」

3/30/2018

類を見ない充実した英語教育科目群! 〜グルグルからスノボまで〜

標記のタイトルで、淡路先生と私が中心となっている、大東文化大学英語学科の英語教員養成についてまとめましたので、是非、御覧ください。

http://www.daito.ac.jp/class/language/details_24338.html

英語学科では、靜と淡路の二人が中心となり、非常勤講師等他の先生がたの協力もいただきながら、実践的なスキルを重視し、理論面の知識を深め、かつ現在の英語教育を取り巻く諸問題をさまざまな角度から批判的に考察する力を養う、充実した英語教育関係の科目群を提供しています。

これらは、教員免許の取得を目指している学生だけでなく、英語教育学系の学生や、他の系を選択していても自由科目として受講することができます。また、すべて他学部・他学科開放科目ですので、英語教育に興味関心のある学生は、是非受講してください。

まず、2年次では教科教育法(英語)基礎 A/B(靜哲人)が開講されています。これは、英語を教えるための4技能の基礎を養い、とくに発音指導、音声指導のためのスキルを実技 重視で磨く授業で、教職の必修科目になっています。



2年次のもう一つの科目は、英語教育学概論 A/B(淡路佳昌)です。この授業では、英語指導に関する考え方や、現在の日本における英語教育の現状や問題点などについて概観し、英語教育に関して考えたり議論をしたりします。この授業は教職科目にはなっていませんが、教免志望者は受講をお薦めします。

3年次では、教職免許の必修科目である、教科教育法(英語)応用A/B(淡路佳昌)が開講されています。この授業に合格し、実習にふさわしい力がついたというアセスメント結果が出ないと教育実習に行くことができません。この授業では、前期は日本の中学・高校で英語を指導する方法について学び、後期では検定教科書を題材にマイクロティーチング(模擬授業)を行い、実際に英語を効果的に指導するためのスキルを身につけます。


3年次以降ではその他にも、英語教育に関連するいろいろなトピックを扱う授業が用意されています。

英語教育学研究1(小学校英語教育)では、英語学習の基礎となる正しい発音とリズム、フォニックス、絵本の読み聞かせやフラッシュカードの活用法など、小学校での英語指導に必要な知識とスキルを磨きます。 英語教育学研究2(言語評価法)では、言語のテスト理論の基礎を学びます。後期には、中学・高校の英語教科書を題材にしてテストを作成し、その良し悪しについて議論します。英語教育学研究3(ICT&CALL)では、英語教育でも急速に普及しつつある ICT 機器やコンピュータについて、従来の機器も含めて広い視点からクリティカルに検討し、賢く活用するための方法について学びます。英語教育学研究4(第二言語習得論)では、第二言語学習に最適な年齢、語彙の学びかた、文法の役割のような第二言語習得に関するトピックについて学び、英語指導について自分の考えを形成します。



教職課程の総仕上げとして開講されているのが教職実践演習(中高)(靜哲人)です。教育実習を経験した学生だけが受けられる科目で、英語教員免許を取得するための「最後の関門」です。ひとりひとりが「英語教員免許の保有者」の名に恥じない、生徒を幸せにできる英語指導者になれるよう画竜点睛のブラッシュアップを行います。2017年度は中学・高校の検定教科書、スピーチ、TED Talks、英語の歌を題材にして、リズミック音読力、発問力、パラフレーズ力、チャンツ作成力などをさらに鍛えました。

また、卒業単位にはなりませんが、教職採用試験に向けて実践的な準備をするための、教職セミナー(英語)も開講されています。ここでは、教員採用試験の過去問題長文を用いながら単なるテスト対策を超えて、スピーキングまでふくめた総合的英語力を養います。

英語教育学関連の科目群では、教職志望者を中心として、ゼミや授業の枠を越え、いろいろなセミナーの実施や、スキー・スノボ大会などのお楽しみ企画も行っています。英語教員を目指す人も、そうでない人も歓迎しますので、まずは関心のある授業から受講してみてください。





待ってます!

「本当に大学の先生のものなのかとびっくりしました」

今般の誤引用事件に関連して、元小学校の先生だった方からメールをいただいた。「その通りだよ!」という部分も多いので、本人の了解のもとに、以下に掲載する。

靜教授 
暇だったもので、福田純也さんがどういう方だろうと検索して、先生のブログより先に「回答」なるものを読みました。正直なところ、この幼稚な文章が本当に大学の先生のものなのかとびっくりしました。特に馬鹿げていると思ったところを、昨日先生のブログで拝見しました。こんなことをわざわざ噛み砕いて言ってやらなければいけないのか。 
小学校での現場経験をもとに私なりに付け加えるなら、例えば、子どもを算数嫌いにしてはいけないから、1年生の間は3+2は5でも6でも○にしようとか誰も言わないし、リコーダーはどうせ卒業したら吹かないから、吹けるようになりたい子だけ出来るようにしてやればいいとかだれも言わないのに、どうして英語だけことさらにデタラメでも気にしない、間違っても大丈夫と強調するのか、できるようになりたい子だけが頑張ればいいという意見がまかり通るのかわかりません。 
私は、引用の鉤括弧というのは著作者の文章を一字一句正確に書き写したものかと思ってました。心技体を読み直しましたが、「」内の文言は見当たらないし、もちろん意図を要約した引用にもなってない。全く理解してない。彼らの理解?の範囲でことばの書き換えをしても無理でしょう。 
仮に文法トレーニングのあとに流暢さ、というのを、発音トレーニングの後に流暢さを、と書き換えたところで違和感はあります。個々の発音が完璧になるまで歌も歌わせない、という受け取り方もできかねません。実際は、LもRも自動化してない段階で歌わされて四苦八苦しました。発音が上手くできないと流暢に歌えないし、流暢に歌えるには、正確な発音、音節感覚を身につけなければならない。 
文法トレーニングの際にも発音をおろそかにしないで、むしろ文法トレーニングであっても流暢さをもとめられています。どちらが先というより「ねらいを持ってきちんと指導しろ」という話ではないでしょうか。ずいぶん単純な要約ですが、福田氏の「引用」よりはましかと。 
引用は作者の意図に反しての改変を禁止するというのは、同一性保持権として定められているので、著作者が意図に反しているといえば、申し訳ありませんでした、と引っ込めるのが当たり前だと思います。 
意図を説明しても通じる相手でなさそうというか、理解しようとする気がなさそうなので、法律に則って削除させるしかないですね。

3/29/2018

学生向け<メールの作法講座>

メールはLINEではありませんので、ごくごく親しい間柄以外は、次のことが(大人の)マナーです。

【マナーその1:本文中に必ず自分の名前を書く!】

これがないのが最大のミスです。メールはLINEと違って、たとえ登録していても、発信者のあなたの名前が受け取った相手の画面に表示されるとは限りません。画面に表示されるのが意味不明なメールアドレスだったり単なる学籍番号であることも多いのです。

そうすると受け取ったこちらは、「これ誰だっけ?」といちいち過去のメールを検索したりアドレス帳を確認したりして初めて「ああ、この学生だったか」とわかる、ということになります。

メールの本文中に必ず自分の名前を書く癖をつけましょう。書き方は大きくわけて2通りあります。

方法1:本文のかなり最初のほう(↓相手の名前、の直後)に、「◯◯太郎です。」と書く。

方法2:本文の一番最後に、「◯◯太郎」と書く。

どちらでもよいですが、メールが長い場合には、併用するのがベストです。

なお、自分の名前は

大東太郎

のようにフルネームで書くのがよいです。これを

大東

と姓だけ書くのは略式で、偉そうです。とくに先輩や先生など、目上の人にそれをしてはいけません。

相手が同輩、後輩、目下の場合には許容されますが、偉そうなので、避けるに越したことはないです。

g-mail などには署名機能があるので、フルネームが自動的に追加されるようにしておくのも良でしょう。

【マナーその2:本文の最初に相手の名前を書く】

次に多いマナー違反は、いきなり本文に入ってしまうことです。手紙と同じように、かならず最初に、

〜さん
〜様
〜先生

などと書きましょう。いきなり本文は、かなり自分勝手で子供っぽい印象を与えます。メール本文に相手の名前を書かないのは、実生活に例えるならば、ノックもせずにいきなりドアを開けて自分の要件を喋りだす幼稚園児のようなイメージです。

特に自分からメールを出すときの、一番最初のメールではこれが大切です。Aさんがメールを出してBさんが返信し、それにAさんが返信し。。。 のように、

A1 → B1 → A2 → B2 → 。。。。

と続く場合、A1で相手の書かないのは100% ありえません。そして、B1でも A2でも、相手が先生や先輩の場合は、頑張って書きましょう。「大人同士の」仕事のメールの場合には、相手の名前を省略するのは、ほぼないです。

いつもやり取りをしていて、超親しい場合以外は、かならず相手の名前を書き、自分の名前を書くのが、「大人」の当たり前。私の場合も、本文だけでやり取りをしているのは、ひとりかふたりだけです。あとのすべての人には、B1やA2やB2でも、まず相手の名前を書いて呼びかけ、最後に 靜哲人 と、差出人の名前を書きます。大人なので。

【マナーその3:件名は、必ず適切につける】

件名とは、本文が何についてのものかをあらわすトピックです。あとから何百通のメールのなかから特定のメールを検索するのに使ったりする、とても大切な「見出し」です。

LINEのくせで、件名を空欄にしてだすのは下の下である。大人同士のメールでは絶対ありません。

次にダメダメなのは、

「大東太郎です」

といった、自分の名前を件名にすることです。

件名とは、メールを開く前に何のことかを素早く知らせるためのものです。トピックの欄に自分の名前を書いてどうするつもりなのでしょう?

そして、やりとりを繰り返すうちに話題が変わったら、件名を新しくする、なども大切です

もはや本文内容とは関係ない昔の件名をそのまま用いたメールが来て、とまどうことがよくあります。

件名はあくまで、そのメールのテーマを表さねば意味がないのです。


【マナーその4: Ccを適切に使う】

Aさんにメールを出す時、そういうメールをAさんに出している、ということをBさんにも知らせておいたほうがよい、ときがあります。

その時に使うのがCcです。

To: のあとにAさんのアドレス

Cc: のあとにBさんのアドレス

を書いて出すと、同じメールがAさんとBさんに同時に配信されますが、宛先や本文をみると、直接の宛先はAさんだとわかり、Bさんとしては、黙って読んで一応承知しておけばよい、とわかるのです。

そういうときにも、本文の最初に、

A様

と書くのが絶対必要だ、ということはわかりますね?それがないと、Aさん宛の文面か、Bさんあてか、あるいは両名あてか、わからないので反応にとても困ります。

アドレスをそうするのに加えて、本文にも、

A様
Cc: B様

と書くのが、もっとも親切で望ましいことです。

【マナーその5:Cc つきのメールには、原則してCcも含めて全員に返信する】

To: A様
Cc: B様

というメールを出す人は、メールの内容をBさんにも承知しておいて欲しいからCc:にBさんを入れているわけです。

そのメールに返信するさいは、原則として、Cc:B様 を残して全員に返信し、Bさんにもその返信が見えるようにすべきです。Bさんにも間接的に関係することがらだからです。

これを、送り主だけに返信すると、返信をBさんからあえて隠している、という印象をあたえます。

Cc:B様

なのだから、自分と相手のやりとりを、すべてBさんに公開した状態で続けるべきである。

逆に、直接の相手だけに返せばいいのに、全員に返信して失敗することもあるので、場合場合で、よく考えることが大切です。

いずれにしても、意味なく、Cc で来たのに個人だけに返信したり、個人だけに返信すればよい内容を全員に返信して迷惑をかけないことが大切です。

大人のメール作法を身に着けて、大人の階段をひとつ登りましょう!

以上

「タスク・ベース回答」についての補足的考察:意味不明な論理

1.はじめに

私信だから公開しないでほしいと言っていた本人が公開したので、私信だという認識を変えたのだと判断し、以下に「タスク・ベース回答」を公開し、その後に、その内容の「イミフ」性を指摘する。

ただし、すでに指摘した「文法は広義だ」論、と「読み取れる信念だ」論についての批判は繰り返さず、「タスク・ベース回答」の本文を参照しないと理解が困難であったと思われる、2つの論点、「綴りや時制のことを言っているじゃないか」論、と、「タイプライターのことを言っているじゃないか」論 についてだけ、あらたに考察を記す。

2.タスク・ベース回答

以下が「タスク・ベース回答」の全文である。

靜哲人様

前路

拙著に対してのご意⾒どうもありがとうございました。以下のように返答申し上げます。

ご質問の中で言及されているのは,松村昌紀()『夕スク・ベースの英語指導--TBLTの理解と実践』の第2章,福⽥純也著「夕スク・ベースの⾔語指導と認知のメカニズム---第⼆⾔語の学習を促す心理的要因」43-44頁の以下に引用する箇所(以下,当該箇所)です。

基本的に,ドリル活動や文法問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。しかし⼼⾔語表出の正確さが必ずしも流腸さより先に発達するとは言えないようである。

この簡所に関する貴殿のご異議の主旨は,靜(2009)すなわち『英語授業の心・技・体』研究社(以下,『心・技・体』)において正確性について論じている部分がすベて発⾳に関することであり,文法に関しては述ベていないにもかかわらず,福⽥(2017)において文法について⾔及する文脈で触れられているという点にあると理解いたしました。

ご異議の内容と,該当章の著者である福⽥の意図との齟齬に関して,重要なのは以下の2点であると考えます。

1.二者間で「文法」が指し示す意昧に相違がある
2.福⽥(2017)の当該箇所は「靜(2009)から読み取ることのできる信念(belief)」について言及したものである

これらの2点について説明を致します。

まず,1についてです。近年の⾔語指導⽅法論に関する議論では,「コミュニケーション」に対して,音声と形態統語的特性の両⽅を含めて「⾔語の形式的側面」という扱いをすることが少なくありません。このような文脈を踏まえ,本書では「文法」という語を広く「⾔語の体系」という意昧で⽤いています。したがいまして,当該箇所は「音声的側⾯,形態・統語的側面をともに含むものとしての⾔語体系の指導に関して,個別的なポイントに焦点を当てて明示的・意識的な理解を高めたうえで,それに基づいてその後のことを展開するベき」との主張全般に言及しているものとご理解ください。全体のコンセプトとしては,⾔語の形式・文法的側⾯の指導というときに本書は全体を通して「⾳形」の指導のことも対象として排除はしていないということです。

その上で,貴殿が当該箇所を「狭義の文法」(統語・形態的統語規則およびその意昧とのマツピング)に⾔及したものと理解され,ご⾃⾝の⾳声⾯の指導についての主張を逸脱した内容だとお感じになったとしたら,そして本書の読者層を鑑みて「文法」という⾔葉によって統語的・形態統語的規則のみを指すと理解されるだろうと懸念されるようでしたら,増刷の際,当該箇所を「形式」という,より⾳声を含む意昧で使用される語で置き換えることを検討したいと思います。さらに,⾳声指導と狭義の文法の指導をまとめて扱うことの妥当性については,学術的にさらに理解を深めていきたいと思っています。

しかしながら,『心・技・体』には,⾳声の正礁さに関する主張がほかの領域にも適応可能であると読める文章が少なからずあります(そうであるがゆえに福田(20l7)において引用をさせていただきました)。たとえば『心・技・体』12-l3⾴では「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションにおいて,発⾳に当てはまることが,綴りや形態統語的(狭義の文法)についても同様に言えることが述ベられております。さらに,ご質問文書中にも言及がありますが,正確さを向上させてから流暢さを求めることの理由として,『心・技・体』では18-19頁に,

話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプス ピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。

とあるのをはじめ,「正確さ」をめぐっての⾳声以外の領域に関するアナロジー・による言及も再三なされています。このことから,今回の引用は,『⼼・技・体』から⼗分に読み取れる内容に従ったものであり,私たちにおきましては引⽤⾃体が不適切なものであったとは考えておりません。

続いて,2についてご説朋いた.します。当該箇所において,引用の「靜,2009など」は,その直前の名詞「考え」にかかっております。これは英語教育に関する⼀般的な指導信念(belief)について述ベているもので,そのことを読み取ることのできる公刊された文書の1つとして靜(2009)を拳げているものです。たとえそれが貴殿において「⾒間きしてきた範囲において真実であり」,「真理」(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)であるとお考えであるとしても,それは当該文脈上「信念」にカテゴライズされるものです。引⽤の際に『心・技・体』に含まれる文を直接引⽤しなかったのは,そうしたことが『心・技・体』の断片的な引⽤によって読者が理解できる範囲を超えており,『心・技・体』全体を読み解くことから理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断したからです(なぜそう読み取れるかという埋由は1に関するお返事を参照してください)。これは学術的には極めて⼀般的な引⽤形態であり,本引⽤は決して横着に起困する杜撰なものではなく,⼀般的な形式に従った適切なものであると考えております。

また,「(靜,2009など)」という言及のしかたに関しては,初稿において当該部分は「(e.g.靜,2009)と表記されていました。しかし,1つの特定的な研究を取り上げて批判/糾弾しようとの意図は私たちにはなく,本書の読者層に鑑みてそのように受け取られることを最大限回避したいとの思いから,編者および他章執筆者との検討の中で全章の表記を統⼀した際に置き換えられたものです(したがって,ご指摘にあるように貴殿による複数の著作を指しているというわけではありません)。増刷時には,靜(2009)とともに,狭義の<文法>について同穣の主張をしている研究を併記することを検討致します。

最後に,今回ご指摘を受けた点だけでなく,本書には読者のあり得る解釈を⼗分考盧し,改めて表現を吟味すベき箇所があろうかと思いまず。ご指摘によってそのような意識を高めていただいたことに感謝申し上げます。しかしながら,ここまで述ベてきましたように,著述に学術的な倫理に背くような根本的な誤りがあるとは,私たちとしては考えておりません。ご質間書と同じ内容が掲裁された貴殿のブログに2018120⽇付で新たに掲載された記事(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)にあります「棄損された名誉」といった,本書執筆者が法を犯す⾏為を行つたかのような記述に関しては誠に遺憾に存じます。近年の学術界において研究不正に対する厳しいまなざしがある中,社会的な影響も考盧され,当骸記事を修正または削除していただくことを希望致します。

草々
2018131
松村昌紀・福⽥純也
(タスク・ベース回答 おわり)

3 「タスク・ベース回答」に関する考察(一部)

3.1 綴りや時制のことを言っているじゃないか論

「タスク・ベース回答」は次のように言う:
しかしながら,『心・技・体』には,⾳声の正確さに関する主張がほかの領域にも適応可能であると読める文章が少なからずあります(中略)たとえば『心・技・体』12-l3⾴では「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションにおいて,発⾳に当てはまることが,綴りや形態統語的(狭義の文法)についても同様に言えることが述ベられております。
意味不明な論理である。「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションで私が平易なことばで言っているのは、読んでもらえば分かる通り、
「文脈があるから発音など不正確でよい、と言う人は、文脈があるから綴りなど不正確でもいい、時制や動詞の変化形など不正確でもいい、冠詞など不正確でいい、と言うのでしょうか?言いませんよね。だったら発音にだってそんなことを言うのはおかしいでしょう?文脈があるから発音など不正確でよい、とはなりません。」

ということである。それをもってして、
「『心・技・体』は、発音も(狭義の)文法も、まずは正確性を身につけさせてから、その後に流暢さの指導に行くべきだと言っている」

と思う人がいたら、その人は控えめに言って日本語の読解力が人並み外れて低い、と言わざるを得ない。綴りや文法の正確性を気にするなら同じように発音の正確性を気にせよ、と言っているのを、発音も綴も文法も、正確性を身につけさせてからその後で流暢に使う練習をさせよ、という「順番」の話にすり替えてしまうのだ。言ってることがまったく違う。

 しかし『タスク・ベース』の著者は大学の教員であって、日本語の読解力が人並み外れて低い、ということは考えにくい。ではなぜ、「タスク・ベース回答」には、「文法を含む言語指導全般においては、正確さを担保してから、そののちに流暢さを養成する活動に移る、という順序は守らねばならない」などという、『心・技・体』には存在しない信念が、

「『心・技・体』全体を読み解くことから理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断した」

などと言うのであろうか。

 率直に言って、私にはわからない。全編はきちんと読んでいないからだろうか、あるいは先入観をもって眺めたのでそう思えてしまったのだろうか、またはその両方だろうか、等々と、推測することしかできない。


3.2  タイプライターのことを言っているじゃないか論


『心・技・体』には次のように書いた。

話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプスピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。

この記述をとりあげて、「タスク・ベース回答」は、
「「正確さ」をめぐっての⾳声以外の領域に関するアナロジーによる言及も再三なされて」いるから『心・技・体』は、音声も文法も正確さを身につけさせてからその後にスピードを身につけさせるトレーニングに移るべきだと言っている
とするのである。
 大変失礼ながら、本当に大丈夫だろうか? 誰でも見ればわかるように、私が言っているのは、
「タイピングの練習ではまず正確にキーをタイプできるようにして徐々にスピードを上げるのと同じように、発音の練習でもまず正確に調音できるようにして、徐々にスピードを上げてください」

ということである。タイピングのアナロジーを出したのが、どうして文法(狭義)に関して私が何か言っていることになるのか?どうして、『心・技・体』は発音だけでなく文法なども正確さを担保したのちに、スピード訓練にいくべきだ、と言っていることになるのか?誰も(狭義の)文法の指導にあたっての順番の話などしていない。タイピングというモータースキルに当てはまることは、発音というモータースキルにも当てはまる、と言っているだけである。

以上

3/28/2018

「群馬の星」、中学に決まりました!

群馬県は、小中で採用するので、採用試験に合格しても、小学校に行かされるのか中学校になるのかがわからないそうだ。

都市伝説(というか群馬伝説か)によれば、面接で、ハキハキ応答すれば中学に、ほんわかムードでやさしく応答すれば小学校になる、とか。

で、淡路先生との何人目かの共同作業の産物たるわれらが「群馬の星」は、なんとか中学に、という思いで、思い切りハキハキ感を出し、背筋を伸ばして、「はいっ!!」と返事をした、そうだ。

それがさきほど連絡がきて、念願の中学に決まったとのこと。ハキハキ作戦、大成功(?)

よかったね〜 ! おめでとう!!

これからも淡路先生とふたりでばっちりアフターサービスも行うから、安心してな。

『タスク・ベース』誤引用事件の当該章の著者、福田純也氏のブログポストのミスリードを指摘する:またかよ!

1 今頃になって反応してきた

松村昌紀編 (2017)『タスク・ベースの英語指導。。。』が『心・技・体』を誤引用しながら誤引用ではないと強弁している件の、当該章の執筆者である福田純也氏から、今(正確には昨日)になって突然メールがきた。

今回の件について福田氏自身のブログに記事をアップしたので「内容についてご検討いただければ」ということである。

2 気が変わったらしい

大修館書店を通じて、私の方は、著者同士の直接メールによるやりとりを望んだにも関わらず、そういうことは望んでいない、という返答をしてきたのが、どういう風の吹き回しか気が変わったらしい。

ただ言っておかねばならないのは、いままでずっと私の方としては、「相手」が福田氏なのか、松村氏なのか、福田氏+松村氏なのか、福田氏+松村氏+その他の執筆者全員、なのか、よくわからない状況に対応してこざるを得なかった、ということである。だから、「そういうことは望んでいない」という態度だったのが、福田氏なのか松村氏なのか、は不明なので、気が変わったのかどうなのかも不明である。

3 「タスクベース回答」を公開している!

いずれにせよ、ご検討ください、ということなので、読んでみた。おや、と思ったのは、『タスクベース回答』にリンクを貼って公開していることである。前は、「私信だから公開はやめてくれ」と言っていたのが、これも気が変わったらしい。噴飯ものなので、暇ならどうぞお読みください。

私信だというから全文を公開しての吟味検討はやめておい(てやっ)たのだが、先方が公開したのだから、もうよいのだろう。後日、私のブログ自体でも全文を公開したうえで、その内容が如何に非論理的で読むに耐えないものであるかを、暇ができたら、改めて指摘するつもりである。

4 福田ポストに見られる巧妙な言葉のすり替え

今日は、とりあえず、今回の福田氏のポスト(以下、福田ポスト3.27)の記述の中にある、不正確さ、ずるさ、デタラメさ、をひとつだけ指摘しておく。

福田ポスト3.27によれば、

(1)靜は、当該引用を増刷時に削除することを検討してくれるよう出版社を通じて求め、

(2)自分たちは、その要請を入れて「当該引用を削除することを承認した」

(3)にもかかわらず、その後、靜氏は要求をさらにエスカレートさせていった、

ように読める。これは事実の歪曲である。

(1)は事実である。しかし、(2)は微妙に(というより巧妙に)、しかしまったく事実ではない。よって(3)も当たらない。

(2)が何を指しているかというと、福田ポスト3.27自体にもコピーペーストされている、自らが書いた、

p.43の 「(靜, 2009など)」の記述については、読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、増刷時に別の文献に変更することを検討いたします

というメール文面を指している。

しかし、「読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、(中略)別の文献に変更することを検討いたします」とは、「検討はするが、変更する適当な文献が見つからなければ、結果的に変更しないこともありうる」という含みを持つ玉虫色の回答であって、福田ポスト3.27にあるような、「当該引用を削除することを承認した」とは全く異なる。

傍観者から見れば微妙な違いなのかもしれない。しかし現に誤引用されて名誉が毀損され続けている当事者にしてみれば、重大な違いである。少なくとも増刷時には自らの名誉を毀損する部分はなくなると約束されるのか、そうするかどうか検討するだけで、どう転ぶかのか保証はまったくないのか、とは天と地ほどの差があるのだ。

なんだか昨日の佐川氏の証人喚問での「虚偽証言ではなく、丁寧さを欠いた答弁であった、と認識している」という答弁を彷彿とさせるような、姑息な言い換えである。

5 しかも、元々はすり替え表現しかなかった!

さらに付記しておくと、いま見られる福田ポスト3.27にある、
※2018/3/28追記:正確を期すと,以下のように返答した;
p.43の 「(靜, 2009など)」の記述については、読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、増刷時に別の文献に変更することを検討いたします。その際には当然ながらp.245に参考文献として挙げている「靜哲人(2009)『英語授業の心・技・体』東京:研究社.」もその文献に置き換えることになります。
という部分は、「追記」とあるように、私にメールしてきて「ご検討ください」と言った当初はなかった箇所である。私が読んで、
「削除することを承認した」というのは事実と違います、あなたが書いてきたのは「変更することを検討いたします」でした、こういう表現のすり替えは、 ご自分の立場を良くするために、事実を変えている、と言われても仕方ないのではありませんか?
と指摘したのに対して、悪びれもせず、「では実際の文章を掲載します」という返答とともに、あとから追加されたものである。

つまり、福田ポスト3.27のオリジナル版を読んだ人は、「靜氏は、福田氏が増刷時の削除を承認したのにもかかわらず、その後もいろいろ難癖をつけたのか」というミスリードをされかねなかったわけである。なんと恐ろしいことだろうか!

6   で、形勢不利と見ると、また逃げた

さらにさらに残念なことに、その不備を指摘すると、「では実際の文章を掲載します」の後に、
「ご指摘を受けて自分の記事を修正するのは少々不自然なので,これ以上本件に関して個別のメールでご指摘に対応するようなやり取りは控えたく思います。」
ということで、どうやらまた、都合が悪くなったので逃げることにしたらしい。しかしつい1日前にわざわざメールを送ってきて「ご検討ください」とおっしゃったのはそちらさまじゃありませんでしたっけ? ご要望に応じて「ご検討」してさしあげて、よくわからない点と不正確な点をフィードバックしてさしあげたら、「これ以上のやりとりは控えたい」って。。。ドユコト?

(不自然だろうがなんだろうが、ヒトサマに関係する事柄についての間違った記述は直せよ! つーか、最初から正確に書け!)

7 あの時本当にそうだったなら...(仮定法過去完了)

もし本当に、あの時点で、彼らが、当該引用を増刷時には削除することをきちんと約束していたならば、その後の私の対応も異なったはずである。なぜならば、『タスクベース回答』を受け取って読んだ時点で、彼らの論理のデタラメさにまず驚愕し、次に絶望した私は、「これはもう理屈の通じる相手ではない」と判断したからこそ、それ以上の不毛な議論はさけ、名はあきらめてせめて実だけはとる形の決着として、「増刷時に削除することの約束」を求めたのであるから。(これが福田ポスト3.27のいう「折衷案」である。)


8 福田ポスト3.27に見られるミスリード体質は、結局『タスクベース』と同じ!?

しかるに、福田ポスト3.27は、自分たちの書いた「読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、増刷時に別の文献に変更することを検討いたします」という返答を、「削除することを承認した」ときわめて不正確にパラフレーズ/要約し、その不正確な表現を足がかりにして、その後の論を「こちらはこうして要求を入れてやったのに、靜はその後も次々に新たな要求を出してきた」という自分に都合の良い方向で展開している。

こういう捻じ曲げ、改ざんともいえる、表現の巧妙なすり替えは、自分のやった行為を実際よりもよく見せかけるための意図的なものなのか、あるいは意図されていない、日本語能力の低さ、思考能力の低さの産物なのか、私にはわからない。

ただ、(1) 新たに昨日執筆されたこの福田ポスト3.27自体の中にも、こういう捻じ曲げデタラメ表現がある、ということと、(2)『タスクベース』の中で『心・技・体』の言っていることを大きく捻じ曲げて誤引用してしまった、ということ、そして (3) どうやら今日にいたるまで、それが捻じ曲げだということが認識できないと言い張っているということ、この3つの根は同じなのかもしれない、と思われ、なんとも救いのない、暗澹とした気持ちにさせられる。

もう、もらい事故にあったと諦めるしかない。










3/26/2018

新作のビデオ編集した

歌の授業で毎年、数曲を入れ替えているが、2018年度に新たに入れる曲を決め、ビデオに歌詞を入れる編集を完了した。

Shape of You
Beauty and the Beast
Do you hear the people sing? (Les Miserableから)



Can't take my eyes off of you

の4曲。

Beauty and the Beast はハモっているので使いにくいと最初は感じたが、何度も聞いて歌っているうちに自分で気に入ってしまって決定。

Do you hear the people sing? は、東京新聞の、安倍首相に抗議して この曲のタイトルをプラカードにして合唱する人たちの記事を見たことをきっかけに、決定。

Bang Bang は、ノリはよくて発音練習にもなりそうだが、さすがに歌詞が下品すぎるので、ボツ。Shape of youが可愛く思えるくらいひどい歌詞である。

Passengerの Let her goも候補にしたが、う〜む、いい曲だし歌詞も哀しくて深いのだが、暗くなりそうなので結局ボツ。で、古いが、ノリノリになる君の瞳に恋してる、に決定。

3/24/2018

ジャパン・ライム オンデマンド 『英語授業の心・技・愛』撮影しました

あのジャパン・ライムオンデマンド Be Professional! 靜流英語授業道からすでに5年。

前にも書きましたが『英語授業の心・技・愛』の映像をオンデマンド配信を、という話になり、撮影開始しております。『心・技・愛』のそれぞれの担当章について語ったあと、3人でさらに討論しよう、という感じです。

セバスは先週すでに撮影を完了し、本日は私の担当章を撮影しました。4月から私のゼミに入る予定の学生2名に、ボランティア活動として聞き役になってもらい、気楽にサクサク撮影することができました。ふたりともお疲れさま。

やっぱり完全に言うセリフをスクリプトで決めないでやると、自然体でできますね。

あとはヒデの個人撮影を行い、その後さらに3人で集まってワイワイ語る場面を撮影し、今年の早めに配信を始めたいと思います。

3/18/2018

UpDATAES 春の会、開催しました!

毎年行っている、これから教壇に立つ学生と、すでに教壇に立っている卒業生が集まって決意表明と情報交換を行う会、UpDATES 春の会を昨日開催しました。ちなみに UpDATESは、Upgraded/Updated/Upbeat Daito Alumni Teachers of English Society のアクロニムです。


群馬県から参加の3名を含め、13名で4時間半に渡って大いに語り合いました。


このお店は、お願いした文言を大将が超達筆の色紙にしてくれる、という特別サービスがあるところで、これから教壇に立つ学生達の決意のほどを色紙にしてもらいました。


それぞれが、なるほど、という決意表明をする中、「座右の銘は、一日三食」という、爆な決意が異彩を放っております。



最後は淡路先生の、「大東卒英語教員の一派を築きたい!」という力強い言葉で締めくくられました。

2〜3年後にはこの店を貸し切れるくらいの人数にUpDATES会員が増えるように、今後も有能な教員になる学生を全力で育てていくつもりです。

(ん?ふと思えばちょうどその頃にはついに還暦を迎える。ということは、「目指せ!還暦貸し切り」プロジェクト、だな。実現に向けて努力をしよう。)











3/17/2018

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)における『英語授業の心・技・体』の誤引用は、増刷時には削除されます。

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)(以下、『タスク・ベース』による誤引用事件が決着しましたので、その顛末を時系列を追って改めて説明します。

結論

『タスク・ベース』のp. 43, l.29「(靜, 2009)」および、p.245, l. 9 「靜哲人(2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」という記述は、同書の増刷時には削除される。

発端

2018.1.9

教職志望学生対象のセミナ−の教材としてあつかっていた教員採用試験の過去問題の中に focus on form という用語が出てきたので、この概念について簡潔な日本語による説明のある文献がないかと思って何冊かブラウズしている時、次の書籍を手に取った。

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)

その pp.37-62 は、

福田純也(2017)「第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム -- 第二言語の学習を促す心理的要因」

である。

その p. 43に、次のようにあるのを発見し、目を疑った(下線は私が付した)。

基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。しかし,第二言語習得の実証研究の結果が示すところでは,言語表出の正確さが必ずしも流暢さより先に発達するとは言えないようである。
ちなみに、「靜,2009」とは拙著、『英語授業の心・技・体』(研究社)(以下、『心・技・体』)のことである。

『心・技・体』では、「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考えはどこにも書いていないし、著者である私にもそのような考えはもともとない。明らかな誤引用である。

異議申し立て

2018.1.12

このような誤引用に基づく批判(『心・技・体』および著者である靜に対する批判)が、すでに書籍として公刊され市場に流通しているという状態は看過できなかった。靜は大東文化大学英語学科の「教科教育法(英語)基礎AB」で、さらに遡れば前任校の埼玉大学の「英語科指導法」で、『心・技・体』を教科書に指定し、これまで授業を展開している。今後もそうするつもりでいる。

上のごとき誤引用を放置しておくのは、「大東文化大学また埼玉大学では時代遅れで誤った考えに基づいた書籍を教材として学生に購入させて授業を行っていた/いる/これからも行う」ということが世間に喧伝されているのを認めることと等しい。

過去、現在、今後の私の授業の学生に対する責任としても、また『心・技・体』の著者として、一刻も早く異議を申し立て、それが誤引用であることを広く一般に知らしめることが必要だと考え、その旨、本ブログにポストした

その上で、そのポストを添えて、それについての著者の見解を伺いたい旨を大修館書店にメールした。

出版社からの受信連絡

2018.1.15

なるべくていねいに確認させていただいてお返事をさしあげたいのでしばらく時間をいただきたい」と著者が言っているので、回答には時間的猶予をお願いします、という旨のメールが大修館書店の担当編集者からあった。

「ていねいに確認」してくれるということだから、先方が『心・技・体』を改めて読み直した上で、上の引用が確かに明らかに誤っていた、あるいは不正確であったことを認識してくれることを靜は期待し、待った。

ブログポストその2掲載

2018.1.20


著者の方、ていねいに確認してくださっているそうです


タスク・ベース回答来る

2018.1.31

大修館書店を通じて紙に印刷された回答が郵送/転送されてきた。編者である松村昌紀氏と当該章の著者である福田純也氏の連名による、A4用紙3ページの回答である(以下「タスク・ベース回答」)。

本来は、ここでその全文を公開すべきだと考えている

発端は、すでに公刊された著書(『タスク・ベース』)による、公刊されている著書(『心・技・体』)に対する、誤引用に基づく批判である。それに対する異議を私はブログで公開し、その公開しているという事実を明らかにした上で、『タスク・ベース』の著者に見解を問うた。それに対して半月以上の時間をかけて紙ベースで郵送されてきたのが「タスク・ベース回答」である。

当然、『心・技・体』『タスク・ベース』双方の読者にも見えるように、受け取った私がそれを公開し、それについて公開で考察・反論する、ことができる性質のはずの「公開可能な公式回答」である。

ところが、大修館書店を介した伝聞によれば、松村氏・福田氏は、「タスク・ベース回答」の公開はやめてもらいたい、と考えているそうである。なぜかと言うと「タスク・ベース回答」は「私信だから」とのことである。

私は、一面識もない松村氏・福田氏からの「私信」を受け取ったのではない。プライバシーに関わることも、私事も一切書いていない、全編が靜の異議申し立てに対する回答である。私信などではなく、刊行物である『心・技・体』の著者として、刊行物である『タスク・ベース』の著者に正式の回答を求め、その結果、出版社を介して送られてきたものが「タスク・ベース回答」である。

それを「私信だから」と言って公開を拒む理由は、私にはひとつしか考えつかない。すなわち、書いた松村氏・福田氏自身が、公開に耐えうる回答内容ではないことを、感じているからだ、としか考えられない。公開されるのが嫌なら、刊行物の著者として、正々堂々と公開してよい回答を送ってくるべきである。

このように考えるが、とりあえず、武士の情け(?)で、ここでの全文公開はしないこととし、以下では、『タスク・ベース回答』を部分的に引用、また全体的に要約して、論を進める。

『タスク・ベース回答』についての考察

1 全体から受けた印象

この回答を読んで「盗人猛々しい」ということわざを想起しないのは私には不可能であった。要旨は、「貴殿の批判はまったくあたらない。逆に貴殿のブログの表現は遺憾なので修正されたし」というものだったからである。2週間以上『心・技・体』を「ていねいに確認」していたのではなく、どうやったら自分たちの非を認めずに済むかの理屈をこねくり回していたのだろうと推測された。

2「タスク・ベース回答」の要点

先方の誤引用に抗議している側として、私のほうが誤引用をしないよう気をつけたうえで、要点を記してみると、以下のふたつになる(わかりやすいように、端的なタイトルをつけてみる)。

(1)「文法は広義だ論」
自分たちは「文法」という用語を広義で用いている、すなわち「音声も統語もふくむ言語の体系」という意味で用いている。だから「文法指導は論じていない『心・技・体』を、ここで引用しているのは不適切だ」という靜の抗議はあたらない。

(2)「読み取れる信念だ論」
『心・技・体』には「言語形式の正確さの獲得は、流暢さの獲得に先行すべきだ」とは書いていないが、そういう信念を本全体から読み取ることができる。だから靜の抗議はあたらない。


3 2つの要点に関する考察
3.1 「文法は広義だ論」について

「文法は広義だ論」にはかなりの無理がある。『タスク・ベース』では「文法」という用語をひろく「言語の体系」という意味で用いている、というのだが、『タスク・ベース』の200ページ以上の中で、何度となくでてくる「文法」という用語をすべて「音声も含めた言語の体系」という意味で読んでくれ、というのは控えめにいって読者にかなり無理を求めているといえる。実際に読んでみればそれが無理であることがわかる。

ただ読む側にとってどんなに無理であっても、自著で用語をどのような意味で用いても筆者の自由ではあるので、「自分たちはAという用語をBという意味で用いているのだ。だからAとあってもBと読んでもらいたい」といわれれば、基本的には「はあ、そうですか」と言う以外にはない。

そこでその要望にしたがって、当該箇所を書き直してみる。「文法」を「言語の体系」と置き換えると次のようになる(置換は下線部)。

基本的に,ドリル活動や言語の体系問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に言語の体系のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。しかし,第二言語習得の実証研究の結果が示すところでは,⾔語表出の正確さが必ずしも流腸さより先に発達するとは言えないようである。

単に置換してしまうとさすがに日本語表現としてはおかしいので、私が異議を申し立てている第2文を、言葉を補いながらパラフレーズすると以下のようになる。(言葉を補ったのは下線部)

発音面、統語面などすべてを含む言語形式一般に関して流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に発音面でも統語面でも正確さを高める、あるいは獲得するためのトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。

こうしてみても、これは明らかに誤った引用である。『心・技・体』が言っているのは「発音面の正確さは流暢さに先行すべきだ」ということである。それを「言語の形式面一般の正確さは流暢さに先行すべきだ」という「考え」の例として『心・技・体』を引いているので、「すべての面での正確さは流暢さに先行すべきだ」と『心・技・体』が言っていることになってしまうからである。(事実は図1であるのに、図2だと言っている)。


  
そしてこれは「タスク・ベース回答」の「自分たちは『タスク・ベース』では「文法」という用語を広義で用いている」という、誰がどうみても苦しい主張を認めた場合の話であって、そんなことは知らず虚心で『タスクベース』を読む普通の読者には、『心・技・体』には図3のようなことが書いてある、と誤解されるはずだ。



「文法は広義だ論」についてのまとめ

「文法は広義だ論」は強弁である。通常の読者はそのような読み方はしない。よって通常の読者には『心・技・体』の内容が誤解される。仮に「文法は広義だ論」にそった読み方をする読者がいたとしても、やはり『心・技・体』の内容は誤解される。すなわち『タスク・ベース』でもちいている「文法」が広義であろうが狭義であろうがは、そこに『心・技・体』を引いているのは明らかに誤りであり、不適切である。

3.2 「読み取れる信念だ論」

「読み取れる信念だ論」はあたらない。第一に、『心・技・体』にはそのようなことはどこにも書いていない。第二に、『心・技・体』の著者すなわち靜にはそういう信念はもともとない。だから、ないものを「読み取れる」はずはない。もしそう「読み取れた」のなら、その者の読み方が誤っている。

『心・技・体』の読者なら誰でも知っているように、筆者である私の信念を端的にまとめたものが、巻末にまとめた「靜流英語授業道 心・技・体 十五戒」である(pp. 202-203)。当然であるが「十五戒」には、「英語全般の指導において、まず正確さを獲得させてから、その後に使うトレーニングをすべし」などという戒律は存在しない。今回の件に多少なりとも関連するのは以下の4つである。

六. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。

七. 生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。

十一. 生徒に音読させる時は、耳を澄まして音を聞き、目をこらして唇の動きを見よ。自分では気づかないダメな点、足らない点を発見してやり、もっと上手くなるためのアドバイスをしてやるために音読はさせるのだ。

十二.  発音や文法など、英語の形式面で改善すべき点は日本語できちんと指摘してやれ。内容本意のやりとりを続ける中でさりげなく正しい形を聞かせるようなESL式では、EFLの日本で生徒に伝わるまで100年はかかる。

要するに『心・技・体』から読み取るべき私の指導信念の肝は、「発音でも文法でも、生徒のパフォーマンスをやらせっぱなしにしないで、きちんとフィードバックせよ」ということである。『タスク・ベース』や「タスク・ベース回答」が言うような、「パフォーマンスは正確さが育ってからにしろ=正確さが育つまではパフォーマンスはさせるな」という信念などではない。

「読み取れる信念だ論」のまとめ

「読み取れる信念だ論」は滑稽である。著者が書いていないこと、そして信じてもいないことを著作の行間から「読み取れる」と強弁するほど滑稽なことがあろうか?

4 まとめ

以上で明らかなように、『タスク・ベース』の中の、以下の下線部で『心・技・体』を引用したことは誤りであり不適切である。『心・技・体』に書いていないこと、著者の靜がそう考えていないことを、「靜2009の考え」としているからである。

基本的に,ドリル活動や文法問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。
私はこの『タスク・ベース』の記述が「学術的な倫理に背く」とまでは考えない。おそらくなんらかの誤解によって生じた残念なヒューマン・エラーであると考える。誤りを認め訂正すればよいのだ。しかしながら「タスク・ベース回答」のように、その誤りを指摘されながら、それは誤りではないと強弁し続けることは、これは教育的かつ学術的な倫理に背くものだと考える。引用された著作物を世間に誤解させつづけ、その著作物の著者の名誉を貶めたままにする行為だからである。


交渉および決裂

2018.2.1 〜 2018.3.14

この期間に靜は、もっぱら大修館書店を介して、以下の4つのことが実現されるよう努力した。

(大修館書店ご担当者からは、ある時点で「いつまでも我々を通さないで、直接やりとりをされたほうが誤解も解けるのではないでしょうか?」との示唆があり、私も同意して『タスク・ベース』編著者との直接のやりとりを望んだのだが、残念ながら先方からは拒否されため、最初から最後まで、大修館書店を通じたもどかしい「伝言ゲーム」をせざるを得なかった。)

(1)編著者が、当該の引用が不適切/不正確であったことを認めること。
(2)増刷時には当該箇所から『心・技・体』の引用を削除すること、を確約すること。
(3)増刷はいつになるのか不明であるため、それまでの救済措置として大修館書店のHPなどで、「増刷時には削除する」ことを公表・明示すること。
(4)上記(2)および(3)が実現された場合には、靜は1月12日および1月20日のブログポストを削除し、簡潔に「誤引用があったが増刷時には削除されます」ことだけを伝えるブログポストを改めて行うこと。

詳細を省略して結論だけを記すと、

(1)は編著者に拒否された。
(2)は編著者と大修館書店の合意で決定された。
(3)に関しては編著者より、次の文言の大修館書店HP掲載を逆提案された:

「靜哲人氏からの要望により、p.43, l.29 「(靜,2009)」および, p.245, l.9 「靜哲人 (2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」は本書増刷時に削除することとします。」

靜はこの提案を拒否した。理由は「靜哲人氏からの要望により」という文言は、「自分たち編著者に責任はなく、自分たちは当該引用が不適切とは認めないが、靜氏が要望してきたから、致し方なくそれに応じてやる」というニュアンスがある、責任転嫁のための表現だからである。このような文言を掲載されるくらいなら、掲載の要望自体を取り下げ、本ブログでその「削除される」という事実を公表し、それに至った経緯を自ら説明したほうがよい、と判断したからである。

当然、(4)は、(3)で合意できなかったため、行わないこととした。


結語

以上の顛末を経て、冒頭にも記した次の結論となった:

『タスク・ベース』のp. 43, l.29「(靜, 2009)」および、p.245, l. 9 「靜哲人(2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」という記述は、同書の増刷時には削除される。

増刷時には誤引用は削除されるという最低限の措置は(推測するに大修館書店担当者の説得もあって)実現することとなったが、増刷が実現されるまでの年月に市場に出回る『タスク・ベース』一冊一冊によって、『心・技・体』が誤解され、著書と著者の名誉が毀損され続ける、という事実には変わりない。それが大変遺憾である。

最後の最後まで非を認めずに強弁する姿勢を崩さず、しかしその強弁を公開されることは拒み、かつ私と直接やりとりをすることから逃げ回ったとしか思えない『タスク・ベース』の編著者に対しては、今は軽蔑と憐れみしか感じない。

(もし「そうではない、逃げてなどいない」と言うならば、今からでも改めて主張を送ってこられたし。ただしそれらはすべてこのブログで公開した上で当方の考えも公開するので、それを前提に、世間に知られて恥ないものだけを送ってくるべし。)

一方で、最後の最後まで著者同士でのより円満な解決を模索してくださり、良識と誠意を持って対応してくださった大修館書店のご担当者諸氏には、心より感謝しています。ありがとうございました。

以上

※「タスク・ベース回答」の全文を希望されるかたは、メールでご希望をお知らせいただければお分けいたします。

※なお、この誤引用事件の顛末をより詳しく記述して研究論文に仕上げ、学内ジャーナルに投稿し、掲載されたものをCiNiiに公刊すべく鋭意準備中です。

3/15/2018

Shape of You マスターした!

いやあ何度となく聴き込んで練習しているうちに、はまってしまった。

皿洗いをしながら オーアイ・オーアイ・オーアイ。。。とつい口をついて出る。

最初は言えなかったフレーズが、音符わりに合わせてピタッと言えるようになるのは、これは結構な達成感があるね、今更ながら。

Take my hand, stop, put Van the Man on the jukebox



We talk for hours and hours about the sweet and the sour


バッチりです。

個人的にはこのカバーが気に入ってしまった。